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鷹山
7月18日、鉾の上部に飾られる「真松」が、根元から折れるトラブルがあった。
「応仁の乱以前より「鷹つかい山」として巡行した山鉾のひとつである。
江戸時代に曳山となり、天明の大火で罹災、寛政年間に現在の「北観音山・南観音山」と同様の大屋根を持つ曳山として復活したが、文政年間に大風雨により大破し、巡行を取りやめた。その後復活を果たせず、幕末の蛤御門の変にて大半の部材が焼失。ただ、人形3体は焼失を免れ、後祭の宵山に居祭として、木彫の「鷹」「犬」と共にお町内にてお飾りを続行。復興を目指して令和元年(2019)より唐櫃巡行(からびつじゅんこう)に加わり、令和4年(2022)、196年ぶりに巡行復帰を果たした。」



北観音山
「通称は「上り観音」。御神体は楊柳観音像と韋駄天立像。創建は文和2年(1353)と記録が残っており、応仁の乱の時代から隣町の南観音山とは1年交代で山を出していたといわれる。」








南観音山
「「下り観音」とも呼ばれ、かつては後の祭の殿(しんがり)をつとめていた。平成24年(2012)の巡行順変更に伴い、29番目(後祭では6番目)に。その後令和5年(2023)からは隔年交代で北観音山と後祭の2番目/6番目を進むことになった。」



大船鉾
「前祭の船鉾が「出陣」を表すのに対し、後祭の大船鉾は戦を終えて戻る「凱旋」の場面を表す。応仁の乱以前から存在する歴史の古い鉾で、くじ取らずで後祭の殿(しんがり)を務める。船鉾の神功皇后は鎧姿なのに対し、大船鉾の神功皇后は戦を終えているため狩衣姿となっている。幾たびの火災を免れた神面は、江戸時代以前の作といわれる貴重なもの。
舳先の飾りは大金幣と龍頭の二つがあり、1年毎交互に使用している。
天明の大火(1788)年に御神体である神功皇后の神面を残して焼失、その後再興されたものの、幕末の蛤御門の変(1864)による火災で鉾本体が焼失して以降は休み鉾となっていた。2000年代以降にお囃子や飾り席が復活し、宵山の際に一般に公開するようになり、2011年には唐櫃(からひつ)に御神体を収めて巡行に参加。2014年には鉾の再建が完了、150年ぶりに巡行に本格復帰を果たした。」


